ブック検索で除外の比率が高くても和解内容に反対という意味にはならない
佐々木譲氏が「
鎮魂のための映画」というエントリで、以下のように嘆いている。
ニュースでは、和解参加派の作家は11パーセントだという。わたしはそれほど少数派か。世代間で態度にちがいがあるのではないかとも思うのだけど、そのあたりはどうなのかな。ネットを使う作家、キーボード入力をしている作家と、手書き作家とのあいだでもたぶん違いは出ているはず。
まず、この11パーセントという比率は、日本文藝家協会のアンケートにおける「回答のあった2712人のうち、デジタル化と表示を容認し、収益の分配を受け取る293人」という意味ではないだろうか。そうだとすると89%が和解から離脱した、ということではないだろう。そして、この比率が低いことは、ことさら嘆くようなものではないと思う。もともと、ブック検索の和解は「作家の知らない間に、書籍をネット公開してしまう」ということを意図したものではないからだ。
オルタナティブにも書いたけれど、オプトアウト(意志表明した時だけ除外)するというスタイルをとっているのは、許諾を得たくても権利者がわからないような孤児作品を表に出すためだ。権利者が名乗り出た作品、さらに言えば、現在販売中のものであれば、その表示使用が無効にされることは、十分に想定の範囲だろう。販売中かどうかが重要な判断基準になっているのも、入手できない書籍を入手できるようにするためだ。その意味では、作家が集まって「我々の作品を勝手に使うようでは困る」というのも、やや的外れだ。“その人たち”は、勝手に使われないようにする方法がもうわかっているはずだからだ。版権レジストリのデータが網羅的でないという面はあるにせよ。
ブック検索の問題は、ひどい翻訳で和解内容を正しく理解できなかったり、そもそも仕組みを知らない人の作品が孤児作品として勝手に使われてしまったり、版権レジストリに誰でもアクセスできてしまうことにあるのだと思う。日本ビジュアル著作権協会が独自の交渉を進めるという
報道があるのだけれど、彼らの作品についてだけ交渉するのであれば、和解から離脱することに何の意味があるのだろうか疑問に思う。(残留して書籍情報を除去してしまえば済む話なので)