日本の裁判員制度ではヘンリーフォンダがいても少年は有罪になる
結局のところ、私はネットで検索したり wikipedia で調べたり、テレビを見たり本を読んだりしている程度の素人談義ではあるわけだが、「素人判断の懸念」を指摘するエントリに対して、「素人はこれだから」と言うのは、論法として間抜けっぽい気がしないでもない。
まあ、開発の専門家でない小倉弁護士が、マジコンは早熟の天才を生み出すというクライアントの主張(そういう主張があるとして)を真に受けたとしても不思議ではない……ゲホ、ゲホッ……少しアーキテクチャを変えれば、不正コピーを困難にしてもなお、早熟の天才の独創性に何ら支障をきたさないデバイスを作ることなど雑作もないという指摘に耳を貸さないのは不思議でたまらない……ゴホッ……わけだが、そうだとしても「
検察は,痴漢関係のみ冒険的に振る舞っているのではない」で語られているのは、私の指摘した「裁判における素人判断への懸念」に答えるものになっていないように見受けられる。小倉氏のエントリが問題視しているのは警察や検察の姿勢ではないだろうか。その部分においては、証拠の捏造や隠ぺいなどが起きぬよう、取り調べの可視化などやるべきことはあると考えている。しかし、検察が証拠を隠ぺいしているのなら、現在の職業裁判官がそれを追求しないのと同じように、裁判員が見抜くことも困難ではないだろうか。むしろ、裁判員は素人なのだから、かえって簡単に騙しやすいのではないだろうか。
『十二人の怒れる男(12 Angry Men)』という映画があり、証拠も証言も圧倒的に不利な立場にいる少年に対して、冒頭で12人の陪審員のうち11人が「有罪」と判断する。ただ一人ヘンリーフォンダが反対するのだが、それも「無罪の確信はないが、少年を殺人の罪に問うのだから、少しくらい時間をかけて考えてあげよう」という程度の反対である。アメリカの陪審員制度は、全会一致を前提としているので、ここで彼らを食い止めることができる。日本の裁判員制度は多数決で決まる。殺人事件の判断を第一印象だけで決めたりはしないだろうが、「全会一致でなければならない」という前提がない状態で、意見を覆すことができただろうか。
もうひとつ、L.A.LAWというアメリカのテレビドラマ(いわゆる法廷もの)にあった話を思い出した。かなりうろ覚えだけれど、大筋ではこんな話だった。法律事務所で働いている秘書ロクシーが陪審員に選ばれる。彼女は、いわゆるブスキャラで、とくに皆から好かれるでもない、自信なさげな人物である。裁判は傷害事件を起こした少年に対するものだが、陪審員室で評議がはじまると一人がこう切り出す。「彼のやったことはそんなに悪いことだろうか。」 彼は、人々の支持を集めそうな饒舌な人物であり、人情家でもある。彼は続ける。こんな事件で彼の未来を奪う権利が我々にあるだろうか。相手がけしかけたから少年がかっとなって、たまたま持っていたナイフで切りつけただけだ。相手にも非がある。私だって同じことを言われたら何をするかわからない。彼を罪に問うことが本当に正義だろうか。他の陪審員も彼の意見に同調するようになる。そう、一人を除いて。ロクシーは叫ぶ「だって彼は怪我をさせたのよ」
法律事務所で働いている彼女にとって、明白な証拠や証言がある以上、無罪にするのは明らかに不当なことだ。他の陪審から心ない非難を受けつつも、彼女は懸命に少年を有罪にすることが法の正義だと訴える。評議が長引き、イラつく陪審員からは「全会一致にならなかったと言おう」という意見も出るのだが、結局彼女の懸命な説得が功を奏して、有罪の判決を下すことになる。事務所に戻った彼女に、ちょうど出かけようとしていた上司が聞く「そういえば裁判はどうなったんだ」。ロクシーは答える「有罪よ」。上司が部屋を出ていくところで、彼女は小さく、しかし自信を持った声で続ける「私が変えたの」。
現実は映画やドラマではないから、いつもヘンリーフォンダやロクシーがいてくれるわけではない。もし、小倉弁護士がいうように、検察が「真犯人の逮捕」よりも「犯罪解決率」を重視しているということであれば、素人判断の裁判員制度に“期待”して、嫌疑十分、証拠不十分な例が起訴されてくる可能性はないのだろうか。証拠不十分でも裁判に送り込んでしまえば、有罪になって犯罪が解決したことになるかもしれない、と考える。そういう懸念はないのだろうか。上記の人情家のように、素人の方がアドホックな経験則を作り出す可能性は高いと思うことは、それほど不自然だろうか。