続・裁判員制度の懸念
小倉弁護士の「
見抜けないのか,見抜いた上で目を瞑っているのか」へのコメントをはてブだけで済ませていたのは納得していたのではなく、色々忙しかったからです。
閑話休題。
さて、
大野さんと私の認識の違いは,裁判官の能力に対する信頼の高低にあるのだと思うのです。
とのことだ。そもそも有罪判決を出しておけば裁判官が立身出世できるという理屈がよくわからないのだが、たしかに時々首をかしげたくなる判決を聞くことはある。もっとも、そういうものでも判決文を読むと、それなりの理由が書かれていたりすることもあるのだが(Winny 判決文など)。小倉弁護士が挙げた例などは、ネットの情報を読む限り疑問を拭えるものではない。
だが、それは裁判員制度によって、本当に見抜くことができるのだろうか。wikipedia には「公判前整理手続は非公開のため、裁判員はどのような論点がはずされたのか知らされずに有罪無罪、量刑の判断をすることになる。」と
書かれている。見抜くべき材料が事前に“整理”されてしまうなら、結局同じような判断を下さざるを得ないのではないだろうか。
そもそも小倉氏が懸念し、裁判員制度に期待されているであろう「冤罪」という問題を引き起こしているのは取り調べのやり方にあるのではないか。何しろ冤罪を疑われる事件は、どれも“自供”が鍵になっているように見える。そうであれば、冤罪の元凶を防止するのは取り調べの可視化といった別のやり方があるのではないか。冤罪の“材料”が捏造される原因を残しながら、それを裁判員制度で見抜けというのは本末転倒ではないだろうか。
少しネタバレになってしまうが、映画『それでもボクはやってない』の冒頭には、主人公ともう一人の2件の取り調べシーンがある。主人公の取り調べは、いかにも誘導されているのだが、もう一人の方は本当に痴漢をして、“ちゃんと”自供させられている。取り調べのようすを(加工なしで)見ることができるなら、それぞれの自供の信憑性ははっきりするだろう。そうした記録もなく、もし、もう一人の本物の痴漢が主人公と同じように“無罪”を訴えたら、どうなるのだろう。「自供は言わされただけなんです」と涙ながらに語れば、彼は無罪判決を受けられるのだろうか。
量刑のバラツキだけでなく、被告のプライバシーへの懸念など、さまざまな問題が提起され、対策が示されていない状況で、ほんとうに制度の導入を是としてよいのか。いまだ、大いに疑問が残るのである。